病院の朝は「ラジオ体操」ではじまる。6時の起床とともに患者、職員が中庭に集まり、まだ暗い冬の朝CDデッキの伴奏にあわせて体操をする。昨日は体調が悪く、結局食事もとらずに寝てしまって知らなかったのだが、それにしても入院早々朝はやくからこんな目に遭うとは。まさか毎日の日課なのだろうか、真冬の寒風吹きすさぶまだ薄明かりの中「ラジオ体操」だなんてとてもじゃないが付き合ってられない。よくよく見回してみると入院患者は中年から初老の男性が多く、その中に数人の女性の患者が混じっている。どの顔も一癖も二癖もありそうな面構えの連中だ。しこたま酒を喰らい、せいぜい人様に迷惑をかけた挙げ句にここまでやって来たのだろう。長年アルコールでぼろぼろにしてきた体に何を今更「ラジオ体操」なものか。体中が「肝硬変」のように強ばった体で思い思いの体操を踊る姿は、まるで泥人形か明け方の墓地によみがえった屍のようだ。とてつもなく切れの悪いマイケル・ジャクソンのスリラーの出来損ないようにも見える。
きのうのK野さんが患者達の前に立ち手本をとって体操を続ける。まだ暗く蒼い朝にその白い看護服のコントラストが切り取ったように浮かび上がり、常人としての境界線を纏っているかのように凛として躍動を続ける。まるでこちらを寄せ付けないオーラを放つ一点の迷いも無いその運動に見蕩れてしまう。一瞬音はかき消されて刹那、僕ら患者は影になり中庭のそれはただの風景になる。永遠とも思える絶望的な距離がその間には横たわっている。
そのまま泥人形の一行は食堂へと向かう。ぞろぞろと向かう。だらだらと向かう。
「206号室は食事当番ですよ」との声がする。どうやら患者自身が食事の準備をするらしい。食堂に行くと各々のテーブルに名前が貼ってあるので自分の名前を探し出し席に着くがどうやら座っているのは僕だけのようだ。皆、何やらそれぞれ仕事があるらしく忙しなく動き回っている。食事となったとたんのその動きはさっきまでの泥人形のそれとはうって変わり、実に手際の良い見違えるほどのものだった。
「なんだこいつら、動けるんじゃないか」思わず心の中で呟いてしまった。さっきまでとの変わり様を思ったら何だか酷く滑稽だ。
ある者はテーブルを拭き調味料や布巾を並べ、ある者はトレイに載せられた食事を配ってまわる。ほかの者も配膳台に用意されたお茶を汲もうと湯飲みやらカップを持って並んでいる。
「みなさん準備はよろしいですか」と当番らしき男。他の患者も席に付いたという所でそれをさえぎる声。「えぇ、みなさんちょっといいですか。昨日から入所されました○○さんに一言自己紹介を」と看護長らしき男。そうか、そういえばそんなこと昨日言われたな、けれど一言と言われてもこれといって思い浮かばない。
「はじめまして。○○と言います。よろしくおねがいします」と気のない挨拶をするとさっきの男が短い紹介を付け加える。すると患者達から拍手が起こった。挨拶しただけなのに拍手だなんて、そういう決まり事なのだろうが照れくさいし気持ちが悪いのでやめてくれ。
あらためて当番の男が仕切り直し、その号令で朝食がはじまった。そこで気が付いたのだがみんな各々自分の箸とコップを用意しているのだ。箸とコップはどうやら自前らしい。中には冗談のつもりなのか、それとも酒を止める気など毛頭ないのだろうか「一番搾り」と書かれたビアマグを湯飲み代わりにしている強者までいる。一生やってろ。
僕が箸もコップもなくどうしようかと思案に暮れているとさっきの号令の男が給湯室にあるからと箸とお茶をわざわざ用意してくれた。男に礼を言い用意された食事に箸をつけようとするが全く食欲がない。目の前に置かれた湯気を立てる食べ物の匂いにむしろ咽せ返ってしまいそうだ。しばらくそのまま結局何も手に付けられないでいるうちに食事の時間は終わってしまった。薬が飲めないからと食べる様に看護師に言われたが食えないものはしょうがないのだ。
先に食事を済ませた者から看護室のカウンターで薬を受け取り看護師の確認のもと服用する。一応はちゃんと服用したかどうかを確認するようだがどうやらそれも曖昧な様子だ。
こうして入院最初の朝を迎えた。あいかわらず意識は薄い靄掛かったようではっきりとしない。昨日は知らぬ間に眠ってしまったようで両親はとりあえずの荷物を取りに家へ戻ったとの事だった。
ひさしぶりにとタバコの吸える場所を中庭に見つけて火をつける。いつのまにか明るくなった中庭の運動場のベンチに腰を下ろして考えてみる。
どうしてなんだろう。今のいままで生きて来て、一体何がどうやら解らなくなってしまって。朝日に照らされて濡れる、浮かぶ雲さえ泣いているように見えた。
2010年8月30日月曜日
2010年8月10日火曜日
独白。13
病室は看護室から目の届く一階の一室。入院の初期、不安定になりやすい新人のための特等席だ。点滴や検査の類いの必要な患者は近くに居た方が看護師達にも都合が良いのだろう。
「○○さん。食事の時間にほかの患者さんに紹介しますので一言ご挨拶お願いしますね」
食事か。しばらく何も口にしていないが食欲はない。食事と聞いただけで何か酸っぱいものが込み上げてきそうだ。
「まだ食べられないかもしれないけど、少しでも、ね」
K野さんが点滴のための消毒ガーゼを当てながらそう言う。こんな状態であるにも関わらず男というのはしょうがない。本当ならこうして会話をしているのも億劫なのに「大丈夫です」などと言ってのける。これがうちの母親ほどの年齢のほかの看護師か、あるいは男性職員であったなら口もきかずに「具合が悪い」とたぬき寝入りでもしていただろう。
「一週間は、一日二回の点滴をしますね。あと、尿検査と血液検査、腹部エコーと脳波測定。落ち着いて来たら院内施設の説明と案内も」
やれやれ、である。またあの頭のチカチカするやつとかやらされるのかと思い、ここに来る前にもやったはずだと説明したのだが話に聞くと前の病院では、まるで検査にならなかったのだという。離脱症状で狂人と化した僕は、検査中終止暴れ続け結局手に負えずこうして此処に移送されたのだった。何となくだが憶えている。ああ、あの検査は失敗に終わったのか。
あらためて病室を見渡すとそこには僕以外に二人の患者がいる。六人部屋に四つのベッドが置かれたその部屋。僕の隣のベッドには生きているのか寝たきりでまるで動かない老人。足を向けた向かいには、何やらしきりに動き回る落ち着きの無い男。まあ良い、どうでも。運ばれて来て最初は離脱症状により酷い状態の者も多いらしく、たいがいは例の保護室に入れられるのだという。もうあんな所に押し込められるのは勘弁して欲しい、それに比べてれば随分ましだ。だいたい僕は二、三日入院し養生したら折りを見て退院するつもりでいるのだ。三ヶ月も居座るつもりなど毛頭ない。
しばらくして母親が戻って来た。親父の姿がない。どうしたのかと聞くと車で寝ているのだという。二人ともこのところ夜もろくに眠れていなかったのだろう、母親は憔悴しきった顔をしていた。
「売店があったから必要なもの買いに行くけど何か欲しいものある」
慌ててこっちに来てしまったのだろう、何も持たずに出て来てしまったらしい。
「コーヒーが飲みたい」
「はいはい、コーヒーね」
母親はすれ違う看護師や患者たちにいちいち頭を下げながら廊下を売店へと歩いていった。その背中が随分と小さく見えた。
両親とも昔の男女にしては大柄な方だ。二人は高校の同級生で父はバレーボール、母はバスケットボールの選手で、二人とも揃ってインターハイの全国大会へ行ったのだという。昔、選手団の集合写真を自慢げに見せられた記憶がある。息子の僕が言うのも変だが、若く美しかった頃の二人がそこには映っていた。その後二人は一緒になり僕が生まれた。両親が結婚してまもなくの頃、母は一度流産しており二十六歳の時にようやく授かった子だったという。
僕は逆子で帝王切開の後、斜頸で生まれて来た。首が右に大きく曲がったまま胎内で育ってしまったのだ。事あるごとに、「生まれながらにしての親不孝者だ」などと冗談まじりに言われたものである。両親は生まれて間もない僕のために県立病院に通い曲がった首を矯正し治療を受けさせてくれた。当時はろくな治療もせずそのまま放置されたままの子供も多かったらしい。そういえば、小学校のころ首の曲がった子供が何人かいて、ある時そのなかのある子のことを馬鹿にしたようなこと言っていじめたことがある。そんな僕を母は赤ん坊のころの写真を見せて酷く叱った。そんな写真と一緒に実家の古い箪笥の引き出しには何通かの手紙と父の古い手帳があり、それらは僕のへその緒とともに大切に仕舞ってある。母の友人からと思しき手紙には、流産の件、その後の懐妊の件そして出産のお祝いの言葉が綴られ、父の手帳には僕の生まれた日のページにこんな言葉が記してあった。
「新しい一日、新しい命と。これからは家族三人で」
そうなのだ、僕は望まれて生まれてきた命だったのだ。
小さくなってしまった母親の背中を見ながらそんなことを思ってしまう。つくづくと思ってしまう。まだ小さな僕を腕に抱き、あのころのふたりはどんな未来を想い描いていたのだろうか。どんな夢を語り合ったのだろうか。
嗚呼、そして僕は今、なんという親不孝な息子なのだろうか。
「○○さん。食事の時間にほかの患者さんに紹介しますので一言ご挨拶お願いしますね」
食事か。しばらく何も口にしていないが食欲はない。食事と聞いただけで何か酸っぱいものが込み上げてきそうだ。
「まだ食べられないかもしれないけど、少しでも、ね」
K野さんが点滴のための消毒ガーゼを当てながらそう言う。こんな状態であるにも関わらず男というのはしょうがない。本当ならこうして会話をしているのも億劫なのに「大丈夫です」などと言ってのける。これがうちの母親ほどの年齢のほかの看護師か、あるいは男性職員であったなら口もきかずに「具合が悪い」とたぬき寝入りでもしていただろう。
「一週間は、一日二回の点滴をしますね。あと、尿検査と血液検査、腹部エコーと脳波測定。落ち着いて来たら院内施設の説明と案内も」
やれやれ、である。またあの頭のチカチカするやつとかやらされるのかと思い、ここに来る前にもやったはずだと説明したのだが話に聞くと前の病院では、まるで検査にならなかったのだという。離脱症状で狂人と化した僕は、検査中終止暴れ続け結局手に負えずこうして此処に移送されたのだった。何となくだが憶えている。ああ、あの検査は失敗に終わったのか。
あらためて病室を見渡すとそこには僕以外に二人の患者がいる。六人部屋に四つのベッドが置かれたその部屋。僕の隣のベッドには生きているのか寝たきりでまるで動かない老人。足を向けた向かいには、何やらしきりに動き回る落ち着きの無い男。まあ良い、どうでも。運ばれて来て最初は離脱症状により酷い状態の者も多いらしく、たいがいは例の保護室に入れられるのだという。もうあんな所に押し込められるのは勘弁して欲しい、それに比べてれば随分ましだ。だいたい僕は二、三日入院し養生したら折りを見て退院するつもりでいるのだ。三ヶ月も居座るつもりなど毛頭ない。
しばらくして母親が戻って来た。親父の姿がない。どうしたのかと聞くと車で寝ているのだという。二人ともこのところ夜もろくに眠れていなかったのだろう、母親は憔悴しきった顔をしていた。
「売店があったから必要なもの買いに行くけど何か欲しいものある」
慌ててこっちに来てしまったのだろう、何も持たずに出て来てしまったらしい。
「コーヒーが飲みたい」
「はいはい、コーヒーね」
母親はすれ違う看護師や患者たちにいちいち頭を下げながら廊下を売店へと歩いていった。その背中が随分と小さく見えた。
両親とも昔の男女にしては大柄な方だ。二人は高校の同級生で父はバレーボール、母はバスケットボールの選手で、二人とも揃ってインターハイの全国大会へ行ったのだという。昔、選手団の集合写真を自慢げに見せられた記憶がある。息子の僕が言うのも変だが、若く美しかった頃の二人がそこには映っていた。その後二人は一緒になり僕が生まれた。両親が結婚してまもなくの頃、母は一度流産しており二十六歳の時にようやく授かった子だったという。
僕は逆子で帝王切開の後、斜頸で生まれて来た。首が右に大きく曲がったまま胎内で育ってしまったのだ。事あるごとに、「生まれながらにしての親不孝者だ」などと冗談まじりに言われたものである。両親は生まれて間もない僕のために県立病院に通い曲がった首を矯正し治療を受けさせてくれた。当時はろくな治療もせずそのまま放置されたままの子供も多かったらしい。そういえば、小学校のころ首の曲がった子供が何人かいて、ある時そのなかのある子のことを馬鹿にしたようなこと言っていじめたことがある。そんな僕を母は赤ん坊のころの写真を見せて酷く叱った。そんな写真と一緒に実家の古い箪笥の引き出しには何通かの手紙と父の古い手帳があり、それらは僕のへその緒とともに大切に仕舞ってある。母の友人からと思しき手紙には、流産の件、その後の懐妊の件そして出産のお祝いの言葉が綴られ、父の手帳には僕の生まれた日のページにこんな言葉が記してあった。
「新しい一日、新しい命と。これからは家族三人で」
そうなのだ、僕は望まれて生まれてきた命だったのだ。
小さくなってしまった母親の背中を見ながらそんなことを思ってしまう。つくづくと思ってしまう。まだ小さな僕を腕に抱き、あのころのふたりはどんな未来を想い描いていたのだろうか。どんな夢を語り合ったのだろうか。
嗚呼、そして僕は今、なんという親不孝な息子なのだろうか。
登録:
コメント (Atom)