2010年8月10日火曜日

独白。13

 病室は看護室から目の届く一階の一室。入院の初期、不安定になりやすい新人のための特等席だ。点滴や検査の類いの必要な患者は近くに居た方が看護師達にも都合が良いのだろう。
「○○さん。食事の時間にほかの患者さんに紹介しますので一言ご挨拶お願いしますね」
食事か。しばらく何も口にしていないが食欲はない。食事と聞いただけで何か酸っぱいものが込み上げてきそうだ。
「まだ食べられないかもしれないけど、少しでも、ね」
K野さんが点滴のための消毒ガーゼを当てながらそう言う。こんな状態であるにも関わらず男というのはしょうがない。本当ならこうして会話をしているのも億劫なのに「大丈夫です」などと言ってのける。これがうちの母親ほどの年齢のほかの看護師か、あるいは男性職員であったなら口もきかずに「具合が悪い」とたぬき寝入りでもしていただろう。
「一週間は、一日二回の点滴をしますね。あと、尿検査と血液検査、腹部エコーと脳波測定。落ち着いて来たら院内施設の説明と案内も」
やれやれ、である。またあの頭のチカチカするやつとかやらされるのかと思い、ここに来る前にもやったはずだと説明したのだが話に聞くと前の病院では、まるで検査にならなかったのだという。離脱症状で狂人と化した僕は、検査中終止暴れ続け結局手に負えずこうして此処に移送されたのだった。何となくだが憶えている。ああ、あの検査は失敗に終わったのか。

 あらためて病室を見渡すとそこには僕以外に二人の患者がいる。六人部屋に四つのベッドが置かれたその部屋。僕の隣のベッドには生きているのか寝たきりでまるで動かない老人。足を向けた向かいには、何やらしきりに動き回る落ち着きの無い男。まあ良い、どうでも。運ばれて来て最初は離脱症状により酷い状態の者も多いらしく、たいがいは例の保護室に入れられるのだという。もうあんな所に押し込められるのは勘弁して欲しい、それに比べてれば随分ましだ。だいたい僕は二、三日入院し養生したら折りを見て退院するつもりでいるのだ。三ヶ月も居座るつもりなど毛頭ない。
 しばらくして母親が戻って来た。親父の姿がない。どうしたのかと聞くと車で寝ているのだという。二人ともこのところ夜もろくに眠れていなかったのだろう、母親は憔悴しきった顔をしていた。
「売店があったから必要なもの買いに行くけど何か欲しいものある」
慌ててこっちに来てしまったのだろう、何も持たずに出て来てしまったらしい。
「コーヒーが飲みたい」
「はいはい、コーヒーね」
母親はすれ違う看護師や患者たちにいちいち頭を下げながら廊下を売店へと歩いていった。その背中が随分と小さく見えた。

 両親とも昔の男女にしては大柄な方だ。二人は高校の同級生で父はバレーボール、母はバスケットボールの選手で、二人とも揃ってインターハイの全国大会へ行ったのだという。昔、選手団の集合写真を自慢げに見せられた記憶がある。息子の僕が言うのも変だが、若く美しかった頃の二人がそこには映っていた。その後二人は一緒になり僕が生まれた。両親が結婚してまもなくの頃、母は一度流産しており二十六歳の時にようやく授かった子だったという。
 僕は逆子で帝王切開の後、斜頸で生まれて来た。首が右に大きく曲がったまま胎内で育ってしまったのだ。事あるごとに、「生まれながらにしての親不孝者だ」などと冗談まじりに言われたものである。両親は生まれて間もない僕のために県立病院に通い曲がった首を矯正し治療を受けさせてくれた。当時はろくな治療もせずそのまま放置されたままの子供も多かったらしい。そういえば、小学校のころ首の曲がった子供が何人かいて、ある時そのなかのある子のことを馬鹿にしたようなこと言っていじめたことがある。そんな僕を母は赤ん坊のころの写真を見せて酷く叱った。そんな写真と一緒に実家の古い箪笥の引き出しには何通かの手紙と父の古い手帳があり、それらは僕のへその緒とともに大切に仕舞ってある。母の友人からと思しき手紙には、流産の件、その後の懐妊の件そして出産のお祝いの言葉が綴られ、父の手帳には僕の生まれた日のページにこんな言葉が記してあった。

「新しい一日、新しい命と。これからは家族三人で」

そうなのだ、僕は望まれて生まれてきた命だったのだ。

 小さくなってしまった母親の背中を見ながらそんなことを思ってしまう。つくづくと思ってしまう。まだ小さな僕を腕に抱き、あのころのふたりはどんな未来を想い描いていたのだろうか。どんな夢を語り合ったのだろうか。

嗚呼、そして僕は今、なんという親不孝な息子なのだろうか。

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