2010年8月30日月曜日

独白。14

 病院の朝は「ラジオ体操」ではじまる。6時の起床とともに患者、職員が中庭に集まり、まだ暗い冬の朝CDデッキの伴奏にあわせて体操をする。昨日は体調が悪く、結局食事もとらずに寝てしまって知らなかったのだが、それにしても入院早々朝はやくからこんな目に遭うとは。まさか毎日の日課なのだろうか、真冬の寒風吹きすさぶまだ薄明かりの中「ラジオ体操」だなんてとてもじゃないが付き合ってられない。よくよく見回してみると入院患者は中年から初老の男性が多く、その中に数人の女性の患者が混じっている。どの顔も一癖も二癖もありそうな面構えの連中だ。しこたま酒を喰らい、せいぜい人様に迷惑をかけた挙げ句にここまでやって来たのだろう。長年アルコールでぼろぼろにしてきた体に何を今更「ラジオ体操」なものか。体中が「肝硬変」のように強ばった体で思い思いの体操を踊る姿は、まるで泥人形か明け方の墓地によみがえった屍のようだ。とてつもなく切れの悪いマイケル・ジャクソンのスリラーの出来損ないようにも見える。
 きのうのK野さんが患者達の前に立ち手本をとって体操を続ける。まだ暗く蒼い朝にその白い看護服のコントラストが切り取ったように浮かび上がり、常人としての境界線を纏っているかのように凛として躍動を続ける。まるでこちらを寄せ付けないオーラを放つ一点の迷いも無いその運動に見蕩れてしまう。一瞬音はかき消されて刹那、僕ら患者は影になり中庭のそれはただの風景になる。永遠とも思える絶望的な距離がその間には横たわっている。

 そのまま泥人形の一行は食堂へと向かう。ぞろぞろと向かう。だらだらと向かう。
「206号室は食事当番ですよ」との声がする。どうやら患者自身が食事の準備をするらしい。食堂に行くと各々のテーブルに名前が貼ってあるので自分の名前を探し出し席に着くがどうやら座っているのは僕だけのようだ。皆、何やらそれぞれ仕事があるらしく忙しなく動き回っている。食事となったとたんのその動きはさっきまでの泥人形のそれとはうって変わり、実に手際の良い見違えるほどのものだった。
「なんだこいつら、動けるんじゃないか」思わず心の中で呟いてしまった。さっきまでとの変わり様を思ったら何だか酷く滑稽だ。
ある者はテーブルを拭き調味料や布巾を並べ、ある者はトレイに載せられた食事を配ってまわる。ほかの者も配膳台に用意されたお茶を汲もうと湯飲みやらカップを持って並んでいる。
「みなさん準備はよろしいですか」と当番らしき男。他の患者も席に付いたという所でそれをさえぎる声。「えぇ、みなさんちょっといいですか。昨日から入所されました○○さんに一言自己紹介を」と看護長らしき男。そうか、そういえばそんなこと昨日言われたな、けれど一言と言われてもこれといって思い浮かばない。
「はじめまして。○○と言います。よろしくおねがいします」と気のない挨拶をするとさっきの男が短い紹介を付け加える。すると患者達から拍手が起こった。挨拶しただけなのに拍手だなんて、そういう決まり事なのだろうが照れくさいし気持ちが悪いのでやめてくれ。
あらためて当番の男が仕切り直し、その号令で朝食がはじまった。そこで気が付いたのだがみんな各々自分の箸とコップを用意しているのだ。箸とコップはどうやら自前らしい。中には冗談のつもりなのか、それとも酒を止める気など毛頭ないのだろうか「一番搾り」と書かれたビアマグを湯飲み代わりにしている強者までいる。一生やってろ。
僕が箸もコップもなくどうしようかと思案に暮れているとさっきの号令の男が給湯室にあるからと箸とお茶をわざわざ用意してくれた。男に礼を言い用意された食事に箸をつけようとするが全く食欲がない。目の前に置かれた湯気を立てる食べ物の匂いにむしろ咽せ返ってしまいそうだ。しばらくそのまま結局何も手に付けられないでいるうちに食事の時間は終わってしまった。薬が飲めないからと食べる様に看護師に言われたが食えないものはしょうがないのだ。
 先に食事を済ませた者から看護室のカウンターで薬を受け取り看護師の確認のもと服用する。一応はちゃんと服用したかどうかを確認するようだがどうやらそれも曖昧な様子だ。

 こうして入院最初の朝を迎えた。あいかわらず意識は薄い靄掛かったようではっきりとしない。昨日は知らぬ間に眠ってしまったようで両親はとりあえずの荷物を取りに家へ戻ったとの事だった。

 ひさしぶりにとタバコの吸える場所を中庭に見つけて火をつける。いつのまにか明るくなった中庭の運動場のベンチに腰を下ろして考えてみる。

どうしてなんだろう。今のいままで生きて来て、一体何がどうやら解らなくなってしまって。朝日に照らされて濡れる、浮かぶ雲さえ泣いているように見えた。

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