2010年9月5日日曜日

独白。15

 腰をかけたベンチから、小さな運動場を挟んだ向かい側に病棟が見える。外来の病棟と閉鎖病棟だ。僕の居るアルコール病棟は別棟で「アルコールセンター」として独立している。それにしても「センター」とは。
山梨県はワインの生産地として有名で「山梨ワインセンター」なるものが存在する。前に見学に訪れたことがあるのだが、こちらは生産、販売などの技術支援等いかに山梨ワインが素晴しいものなのかということの研究と普及啓蒙を行っている。
依存症を克服し更生支援のための「アルコールセンター」。一方ではアルコールを醸造し販売し依存症者を増やす支援のための「ワインセンター」。
どちらもほかに名付けようは無かったのだろうか。

 タバコを数本吸い切る頃、母親くらいの年の看護師が僕をみつけて小走りに近づいてきた。「○○さん、食事が済んだら検査ですよ」
ああ、そうだった。すっかり忘れていた。
「となりの病棟の心理室に行って下さい。そこで担当の先生が待ってますから」。
場所が分からないと聞くと、売店の向かいを入って左側のドアだという。売店の場所は知っているのでなんとかなるだろう。空になりかけているタバコの箱を見つめ、検査の帰りに売店にでも寄ってみることにする。そういえば病院という所はタバコを売っているものなのだろうか。小銭を取りに病室に戻ろうと立ち上がろうとすると一瞬目の前が暗くなり締め付けるような鈍い頭痛が走った。何日かぶりだからなのだろうか久々のタバコにひどく酔ってしまったようだ。
病室に戻ると今度は別の看護師がやって来て慌ただしく言う。採血を取るので看護室に来いと、午前中は点滴を打つので早く検査を済ませて来いとの事だ。なんとも忙しい。

 精神科と言ってもここのアルコールセンターは解放病棟になっていて基本的には出入り自由だ。許可さえもらえば施設外への外出も出来るという。近くにコンビニとかスーパーもあるらしい。ここに運ばれて来た時、どこをどう通ってやって来たのか全く憶えていないのでS病院がK市のどこにあるのかもさっぱり見当がついていないのだが。採血用の細い注射針を見つめながら「飲みたくなったらコンビニか」などとふと過る考えを振り払い、言われた通りに検査へ向かうことにする。
 売店の前まで行き物色するようにそれとなく中を覗いてみる。中では若い女性職員が忙しそうに働いていた。朝食のあとの朝の売店は混むのだろうか、レジに列ぶ患者達はジュースや菓子パンなど思い思いの品物を手にしている。「朝食の後なのに良く食えるな」などと思いながらガラス越しに見ていると女性職員と一瞬目が合う。
「よし、検査が終わったら売店だな」とポケットの中の小銭を確かめる。

 「心理室」と書かれた一室のドアを叩くと中から「どうぞ」と声がする。部屋の正面の机に腰掛ける中年の女医に検査を受けに来たとの旨を伝える。さらに右奥の部屋に案内され、白いシーツの掛かった診察台に腰を下ろす。女医は長々とカルテを眺めた後で言う。
「大変だったわね、生きてて良かったわ」そう言われるのも何度目なのだろう。上着を脱ぐように言われ診察台に横になる。エコー検査といって、音波を当て内蔵の様子を見るらしい。
「はい、ちょっと冷たいかもしれないですよ」と女医。ジェルのような透明な液体をゴム手袋をはめた手にとる。それを僕の腹部に塗った後あとなにやらハンドマッサージの器具のような物をみぞおち辺りに当がいモニターをみつめながら続ける。
「あら、やっぱり随分肥大してるわね、ちょっとここは痛む?ここは?」
と、みぞおちの中心から右脇腹の腰の近くまでをまんべんなく指先で押しながら聞いてくる。
「はい、これ見て。これがあなたの肝臓ね、ここからここまで。普通の人はね、これ位」と自分の手のひらを指を小さく揃えて見せてくる。
「ここが胃で普通ならこの裏側、ちょっと下あたりに隠れるくらいね」
女医の指差すモニターに目をやる。
「それが見て、あなたのはここからここまでが肝臓、完全に肥大してるわよ」
見ると、さっき触られたみぞおちの中心から右腹部、それに腰のあたりまでが白い影のような映像で埋め尽くされている。もう、腹部の大半を肝臓が占めているのだ。

それを見てぞっとした。フォアグラなんてものじゃない。
「ここまでくると肝炎一歩手前ね。脂肪肝でなんとか済んでるみたいだけど、もう一滴も飲んじゃ駄目だよ」。
ふと、とある本の冒頭の一文が頭に浮かんだ。

『私は禁酒をしようと思っている。このごろの酒は、ひどく人間を卑屈にするようである。昔は、これに依っていわゆる浩然之気を養ったものだそうであるが、今は、ただ精神をあさはかにするばかりである。近来私は酒を憎むこと極度である。いやしくも、なすあるところの人物は、今日此際、断じて酒杯を粉砕すべきである。』

それは、太宰 治の「禁酒の心」の冒頭部分である。

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