2011年1月7日金曜日
独白。20
僕らは生まれた時にはまん丸い完璧な球体であったはずだ。ひとつの角も無い、その全体が「面」である球体。生まれ落ちた瞬間からそれはあらゆる刺激に晒され、つぎつぎにその滑らかさを失ってゆく。
最初の刺激に触れ、完璧な「面」は早くも失われ、次に無数の線を繋ぎ合わせた限りなく球体に近い、数えきれないほどの「面」からなる多面体へと変化してゆく。ストレスや刺激、経験といった物がその多面体の「面」の一つに触れるとその「面」は壊れ、繋がり、より大きな「面」を作り出す。人は重ねてゆく時間の中で完璧な球体から様変わりし、たくさんの面を持った「多面体」となるのだ。
そのたくさんの「面」こそが性格であり能力であり人と成りであり、多面体の形こそがその人の個性となってゆくのだ。
そうなのだ、人とは積み重ねて生きてゆくのではなく、そぎ落して生きてゆくのだ。
だが、僕のその形は少し違っている。無数の多面を持った球体に近いそれではなく、あらゆる刺激にぶち壊されて、三十六面、二十四面、十六面、十二面と、ついにはたった四つの「面」しか持たない「三角錐」のような形をしている。
もう一度、何かの力が加わってひとつでも「面」が壊れてしまえばもう、その瞬間に存在しなくなる。完璧な球体でもない限り、この世の中の物質は最低でも四つの「面」を持っていなければならないのだ。
雑言、罵声、嘲笑、嫉妬、皮肉、暴力。
もう、耳を塞いでじっとうずくまっていないと消えてしまうのかもしれない。
ふと我に帰ると、ひどい妄想にTシャツは汗にじっとりと濡れている。エアコンを付けたまま酔い潰れてしまったのだろうか、冷えきった部屋の空気に身震いをする。部屋の窓を開けるとどんよりと生暖かく湿気を帯びた空気が流れ込んできた。
がんがんと頭が痛い。どれくらい飲んだのだろうか、白いテーブルには数本の空き缶と空瓶が転がっている。
グラスにわずかに残った生ぬるいウォッカを飲み干し、キッチンへと向かう。ステンレス製の流し台の下の扉を開け、奥に手をやり感触を確かめてから何かの瓶を引きずり出す。
「料理酒よりましか」と赤ワインと日本酒の瓶を眺めながら思う。店から引き上げてきた包丁ケースの中からワインナイフを取り出す。ドイツ製のそのナイフを当てがい、奥から半周、手前に半周。アルミの封かんが切り離されるのを心地よく感じる。酔っぱらっていても、長年やって来たその動作には寸分の狂いも無い。スクリューをねじ込みコルクを引き抜き、さっきのグラスに注ぎながら心のなかでつぶやき自嘲する。
「って、これ料理用に買ったやつじゃん」。
グラスのワインを目覚めの水のように飲み干す。二杯目を注ぎながら胃のあたりに熱いものが感じられると、さっきまでの頭の痛みがすぅと遠のいてゆく。
白いテーブルに凭れるようにして白い椅子に腰掛け、二杯目のワインを口にしながらさっき取り憑かれた夢ともつかない妄想を思い出す。
最後の「面」が壊れてしまったらどうなるのだろう。精神の崩壊なのだろうか、それとも死なのだろうか。それとも、もう一度完璧な「面」に戻れるのであろうか。いずれにしてもさっきの妄想もあながち間違ってはなく、確かに僕は多面を持った柔軟な人間ではない。三角柱とまではいかなくても随分偏った歪な形をしているのだろう。
それとは逆に僕とは全く違う人はどんな形をしているのだろう。一昔前のクラブに吊り下げられたミラーボールのようにたくさんの「面」を持ち、あらゆる光を跳ね返し身にまとう様にきらきらと輝いているのだろうか。またある者は複雑な構造を持ち、その叡智を後の世に伝える古代の遺跡のような形をしているのだろうか。
まぁ、何にせよひとつだけ確かな事がある。
僕は仕事を放り投げて、またひとつ「面」をぶち壊しにしてしまったのだ。
独白。19
陽射しはすっかり強くなっていて、日中ともなると逃げ場の無い熱気と揺らめきたつ陽炎にむせ返り、纏わり付くそれを冷えたビールで洗い流す。
夏だ。
仕事を放棄した僕の側で、携帯電話が唸りを上げている。店のオーナーからだろう。午後になっても現われない僕と、すっかりがらんどうになってしまった事務所の様子に少しは狼狽えてるのであろうか。
僕は携帯電話の電源を切り、多少の罪悪感をごまかすために何本目かのビールを開ける。
いつだって、物の終わりなんて唐突なものなんだ。
今までもそうだったじゃないか、嫌な予感とか不安とかいうものはそれを感じ始めたときにはもうすでに手遅れで、絶対的な絶望としてすぐ傍らに寄り添っているものなのだ。気付いたときには遅いのだ。
仕事柄飲む機会が多かったので、そうなると運転が出来ない。なので近くにアパートを借りて住んできた。実をいうと、まだ実家から通っていた頃、仕事帰りに見事に飲酒運転で捕まってしまったことがあり、それに懲りて以来ここに住んでいるのだ。
投げ出してしまったものに後ろ髪を引かれ、今から戻って謝ろうかとも考える。しかし、それよりも責任を放棄して得た、後ろめたい開放感に心地よさを憶えてしまっている。きっと、僕はもう限界なんだ。
今まで培ってきた、信頼や関係、人とのつながり、友人達。失ってしまう物もたくさんあるんだろう。だけどもういい、しばらく休ませてほしい。
そのまま眠りについてしまったようで、気付いた頃にはもう辺りはすっかり薄暗くなっていた。窓からは夕方の涼しく濡れた空気が流れ込む。
ひとつだけ、気がかりな事がある。
今までも何度も心が折れそうになった事はあったのだが、そいつがぎりぎりのところで僕をつなぎ止めておいてくれたのだ。
冷蔵庫を開け、中身の侘しさに舌打ちを一つしたあと、近くのコンビニへと向かう。まだだいぶ酔っている頭と躯の酔い冷ましの夕涼み、縺れる足で散歩のついでに、その気がかりな事のところへ。
しばらく歩くと青と白の看板が見えて来る。国道に面したそのコンビニを一本裏の国道と平行に伸びる裏道から目指す。仕事先にほど近いすっかり馴染みのコンビニである。
近づくにつれ、例の気がかりな事で頭はいっぱいになる。急かす気持ちが自然と歩幅を広くする。
しばらくすると遠くの方から僕を見つけたのか、何やら喚きながら近寄って来る影がある。その影は僕を確認すると歩みを小走りへと変え、真っすぐに僕の元へと駆け寄ってきた。
道路の真ん中であるという事に構いもせず、腹を上にして転げ回り、喉を鳴らし甘えてくる。
「ジョナ、ごめんな。ご飯まだでしょ」。
そう、気がかりだったのは子猫の頃から店の裏あたりに居着いている野良猫の「ジョナ」なのだ。
そう言うのを理解したのかどうかは分からないが、僕の先を歩き、「早く」と言わんばかりにコンビニの方へと歩いて行く。僕が自動ドアを通るとそのドアの外に行儀良くちょこんと座り、猫だと騒ぐ人にもおくびもせず僕の買い物の様子をじっと見ている。まるで、目当てのものをちゃんと買ってくれたかチェックをしているようだ。
彼女が子猫の頃から毎日のように繰り返されているこの様子に、店員さんも慣れた様子で咎めるような事も言わない。
「今日も外で待ってますよ、からあげクンはいいんですか」。
と店員さんの口車に乗せられてついひとつ。そう、これが目当てなのだ。
猫缶とからあげクン、自分用の缶チューハイとウォッカを買う。
店を出ると、「待ってました」とばかりに甘い声で鳴き、それをねだる。
すこし離れた駐車場の隅で、チューハイの缶を開け、からあげを一緒に分けて食べる。きのうから何も食べていなかったのだろうか、猫缶もからあげもあっという間に平らげた。
満足したのだろうか、時々こちらに視線を向け何やらつぶやくように鳴いては、すぐ隣で喉を鳴らし満足そうに毛繕いをしている。
いつもと何も変わらない風景のはずなのだが、なんだか僕は自分の不甲斐なさで彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
夏だ。
仕事を放棄した僕の側で、携帯電話が唸りを上げている。店のオーナーからだろう。午後になっても現われない僕と、すっかりがらんどうになってしまった事務所の様子に少しは狼狽えてるのであろうか。
僕は携帯電話の電源を切り、多少の罪悪感をごまかすために何本目かのビールを開ける。
いつだって、物の終わりなんて唐突なものなんだ。
今までもそうだったじゃないか、嫌な予感とか不安とかいうものはそれを感じ始めたときにはもうすでに手遅れで、絶対的な絶望としてすぐ傍らに寄り添っているものなのだ。気付いたときには遅いのだ。
仕事柄飲む機会が多かったので、そうなると運転が出来ない。なので近くにアパートを借りて住んできた。実をいうと、まだ実家から通っていた頃、仕事帰りに見事に飲酒運転で捕まってしまったことがあり、それに懲りて以来ここに住んでいるのだ。
投げ出してしまったものに後ろ髪を引かれ、今から戻って謝ろうかとも考える。しかし、それよりも責任を放棄して得た、後ろめたい開放感に心地よさを憶えてしまっている。きっと、僕はもう限界なんだ。
今まで培ってきた、信頼や関係、人とのつながり、友人達。失ってしまう物もたくさんあるんだろう。だけどもういい、しばらく休ませてほしい。
そのまま眠りについてしまったようで、気付いた頃にはもう辺りはすっかり薄暗くなっていた。窓からは夕方の涼しく濡れた空気が流れ込む。
ひとつだけ、気がかりな事がある。
今までも何度も心が折れそうになった事はあったのだが、そいつがぎりぎりのところで僕をつなぎ止めておいてくれたのだ。
冷蔵庫を開け、中身の侘しさに舌打ちを一つしたあと、近くのコンビニへと向かう。まだだいぶ酔っている頭と躯の酔い冷ましの夕涼み、縺れる足で散歩のついでに、その気がかりな事のところへ。
しばらく歩くと青と白の看板が見えて来る。国道に面したそのコンビニを一本裏の国道と平行に伸びる裏道から目指す。仕事先にほど近いすっかり馴染みのコンビニである。
近づくにつれ、例の気がかりな事で頭はいっぱいになる。急かす気持ちが自然と歩幅を広くする。
しばらくすると遠くの方から僕を見つけたのか、何やら喚きながら近寄って来る影がある。その影は僕を確認すると歩みを小走りへと変え、真っすぐに僕の元へと駆け寄ってきた。
道路の真ん中であるという事に構いもせず、腹を上にして転げ回り、喉を鳴らし甘えてくる。
「ジョナ、ごめんな。ご飯まだでしょ」。
そう、気がかりだったのは子猫の頃から店の裏あたりに居着いている野良猫の「ジョナ」なのだ。
そう言うのを理解したのかどうかは分からないが、僕の先を歩き、「早く」と言わんばかりにコンビニの方へと歩いて行く。僕が自動ドアを通るとそのドアの外に行儀良くちょこんと座り、猫だと騒ぐ人にもおくびもせず僕の買い物の様子をじっと見ている。まるで、目当てのものをちゃんと買ってくれたかチェックをしているようだ。
彼女が子猫の頃から毎日のように繰り返されているこの様子に、店員さんも慣れた様子で咎めるような事も言わない。
「今日も外で待ってますよ、からあげクンはいいんですか」。
と店員さんの口車に乗せられてついひとつ。そう、これが目当てなのだ。
猫缶とからあげクン、自分用の缶チューハイとウォッカを買う。
店を出ると、「待ってました」とばかりに甘い声で鳴き、それをねだる。
すこし離れた駐車場の隅で、チューハイの缶を開け、からあげを一緒に分けて食べる。きのうから何も食べていなかったのだろうか、猫缶もからあげもあっという間に平らげた。
満足したのだろうか、時々こちらに視線を向け何やらつぶやくように鳴いては、すぐ隣で喉を鳴らし満足そうに毛繕いをしている。
いつもと何も変わらない風景のはずなのだが、なんだか僕は自分の不甲斐なさで彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
独白。18
その日もいつもの様にラストオーダーをやり過ごし、厨房を片付けた後お客の酒に付き合っていた。たいがいオーダーストップ後にやって来る客というのは顔なじみで、どこかでしこたま飲んで来たあと、まだまだ飲み足りないのか最後の仕上げにとばかりにふらふらとやって来る客や、同業者で仕事帰りに喉を潤しにやってくる様な客がほとんどだった。
ラストオーダーとは言っても腹が減ったと、なにか肴をと言われれば断る訳にはいかないのでたとえ真夜中だとしても鍋を振るうことになる。一応、深夜十二時ラストオーダー、片付けをして一時で僕の仕事は終い。という決まり事んはなってはがそんな決まりが守られる訳もなく、毎夜やってくる酔っぱらい達に酒や食事を振る舞うのだ。
そこで、付き合わされる客の酒、これがまた旨いものなのである。
「こっち来てなんでも、好きな物飲みなよ」「さっさとお仕事片付けてここにすわってよ」などとご指名があろうものならば、遠慮なくご相席いただくのである。
ビール一杯ごちそうになったり、客のボトルを飲みきって、じゃあもう一本入れようかとなればそれは店の売り上げにもなる。
つまるところ、深夜においての僕の役割はキャバクラやスナックの女の子と一緒なのだ。
そんな生活を続けているうちに、体に異変が現われた。体にというより、酒の飲み方自体にだ。
以前はどんなに飲んだ次の日の仕事でも、お昼の営業がはじまる頃にはすっかり酔いも冷めていた。それがだんだんと、酒が抜けきらないばかりか、抜けて来ると手元が震える様になってきたのだ。包丁を持つ手、料理を運ぶ手が震える。
それをごまかすために、あらかじめ買っておいた酒をあおる。厨房が仕事場なのでそこに酒が置いてあっても誰も怪しまない。調理用ワインや製菓用のリキュールの瓶の中に紛らわせておけば誰も不思議がらない。それらをちびりちびりとやりながらオーダーをこなすのである。
多少酒臭くとも、「いやぁ、きのうは飲み過ぎましたねぇ」の一言でごまかしながら。
そうなのだ知らずのうちに僕は立派な「キッチンドランカー」になっていたのだ。
そんな生活がしばらく続いた。どれくらいのあいだ酔っぱらい続けていたのだろうか。だんだん仕事も億劫になり、自分でも嫌になるほど適当で怠慢な仕事振りでやり過ごす日々が続いた。やっつけ仕事とはまさにこのことだ。
ある暑い夏の日の夜、いつもの様に客の酒で酔っていた。夜もすっかり深くなり、他の従業員はとっくに帰ってしまっていた。カウンターでは店のオーナーが酔いつぶれていた。僕は店を閉めようと片付けをはじめていた。
すると、もうひとり酔いつぶれていたお客の男がおもむろにフラフラと立ち上がる。ようやく帰るのだろうかと思い、声を掛けようとしたその時だった。席を立った男はズボンのチャックを下げ、何を思ったのかカウンター横にに置いてあったカラトリー(フォークやナイフ)のラックに向かって勢い良く小便をぶちまけたのである。
ぼんやりとその様子をみていた僕の中で、何かが弾けて飛び散った。
「もうやめよう。こんな仕事」 酔いすぎた頭とからだが僕にそうつぶやかせた。
気が付くと、はじから私物を車に放り込んでいた。
長い間のうちに随分と荷物が多くなっていて、まるで僕の部屋と化していた奥の事務所に少々手こずりながら黙々と荷物を車へと運んだ。
割と大きめのステーションワゴン。座席を倒した後ろの荷台はあっという間に荷物で一杯になっている。
それを見て、なんだか妙にすっきりとした気持ちになり大きく息を吸ってみる。
夏のにおいがしていた。
涼しい風が吹いていた。
夜はしらじらと明けようとしていた。
ラストオーダーとは言っても腹が減ったと、なにか肴をと言われれば断る訳にはいかないのでたとえ真夜中だとしても鍋を振るうことになる。一応、深夜十二時ラストオーダー、片付けをして一時で僕の仕事は終い。という決まり事んはなってはがそんな決まりが守られる訳もなく、毎夜やってくる酔っぱらい達に酒や食事を振る舞うのだ。
そこで、付き合わされる客の酒、これがまた旨いものなのである。
「こっち来てなんでも、好きな物飲みなよ」「さっさとお仕事片付けてここにすわってよ」などとご指名があろうものならば、遠慮なくご相席いただくのである。
ビール一杯ごちそうになったり、客のボトルを飲みきって、じゃあもう一本入れようかとなればそれは店の売り上げにもなる。
つまるところ、深夜においての僕の役割はキャバクラやスナックの女の子と一緒なのだ。
そんな生活を続けているうちに、体に異変が現われた。体にというより、酒の飲み方自体にだ。
以前はどんなに飲んだ次の日の仕事でも、お昼の営業がはじまる頃にはすっかり酔いも冷めていた。それがだんだんと、酒が抜けきらないばかりか、抜けて来ると手元が震える様になってきたのだ。包丁を持つ手、料理を運ぶ手が震える。
それをごまかすために、あらかじめ買っておいた酒をあおる。厨房が仕事場なのでそこに酒が置いてあっても誰も怪しまない。調理用ワインや製菓用のリキュールの瓶の中に紛らわせておけば誰も不思議がらない。それらをちびりちびりとやりながらオーダーをこなすのである。
多少酒臭くとも、「いやぁ、きのうは飲み過ぎましたねぇ」の一言でごまかしながら。
そうなのだ知らずのうちに僕は立派な「キッチンドランカー」になっていたのだ。
そんな生活がしばらく続いた。どれくらいのあいだ酔っぱらい続けていたのだろうか。だんだん仕事も億劫になり、自分でも嫌になるほど適当で怠慢な仕事振りでやり過ごす日々が続いた。やっつけ仕事とはまさにこのことだ。
ある暑い夏の日の夜、いつもの様に客の酒で酔っていた。夜もすっかり深くなり、他の従業員はとっくに帰ってしまっていた。カウンターでは店のオーナーが酔いつぶれていた。僕は店を閉めようと片付けをはじめていた。
すると、もうひとり酔いつぶれていたお客の男がおもむろにフラフラと立ち上がる。ようやく帰るのだろうかと思い、声を掛けようとしたその時だった。席を立った男はズボンのチャックを下げ、何を思ったのかカウンター横にに置いてあったカラトリー(フォークやナイフ)のラックに向かって勢い良く小便をぶちまけたのである。
ぼんやりとその様子をみていた僕の中で、何かが弾けて飛び散った。
「もうやめよう。こんな仕事」 酔いすぎた頭とからだが僕にそうつぶやかせた。
気が付くと、はじから私物を車に放り込んでいた。
長い間のうちに随分と荷物が多くなっていて、まるで僕の部屋と化していた奥の事務所に少々手こずりながら黙々と荷物を車へと運んだ。
割と大きめのステーションワゴン。座席を倒した後ろの荷台はあっという間に荷物で一杯になっている。
それを見て、なんだか妙にすっきりとした気持ちになり大きく息を吸ってみる。
夏のにおいがしていた。
涼しい風が吹いていた。
夜はしらじらと明けようとしていた。
2011年1月6日木曜日
独白。17
病棟に戻り喫煙室に入って一服するが、タバコが全然旨くない。となりの病棟に行って検査を受けて往復して来ただけなのに体中がだるい。しかも、真冬だというのに全身から脂汗が吹き出してきてべたべたと気持ちが悪い。
喫煙室で回る換気扇の「ごぉ」という騒音に耳を塞がれ、意識と体とがまるで別物のように感じられて来る。体は造り物のように硬く感じられ、それがまったく自分の物だとは思えなくなる。換気扇の騒音に辺りの音は掻き消され、視覚は脳裏から剥ぎ取られて体とは別のところからその映像を観ているようだ。
どれくらいそうしていたのだろうか、喫煙室のドアを開ける音で飛んだ意識を引き戻された。
「○○君。さっきから探してるよ」
灰皿がわりに置いてある、何かの大きな空き缶を挟んで向かいに腰掛けた男がそう声を掛けて来た。その声にはっとなり顔を上げると男は僕の背にしている喫煙室のガラス張りをあごで指す。男の言う方に目をやるとガラス越しに、ひとりの看護師と目が合った。
その看護婦は僕の病室と自分の左の腕を交互に指差し何やら口を動かしている。
「点滴かなんかするんじゃないの」
向かいに座った男がそうつぶやく。そうだった、そういえばそんな事を検査に向かう前に言われていた。
ふらつく足で立ち上がり、向かいに座った男に礼も言わず、むしろ睨みつけるようにして喫煙室を出た。
「しまった、悪い癖だな」と思いながら喫煙室の前を横切り自分の病室へと向かった。
病室に戻りベッドに腰掛けていると早速ガラガラと点滴の器具を押して看護師が入って来た。
「○○君、どこいってたの。早くしないとお昼までに終わらないわよ」
言われるがままに腕を差し出し、天井を見上げる格好で横になる。もう慣れたもので、子供の頃あれほど嫌いだった注射の類いも全く気にならなくなっている。とにかく注射が嫌いで、あの手この手でなんとか腕に針する事を避けようといろんな事をした。予防接種の朝の体温測定を書き直してみたり、体温計を擦って温度を上げ、仮病を装ってみたり、注射の時間の前に小学校を逃げ出し身を隠してみたりと。
当然、子供の浅知恵なのでこっぴどく叱られた後、結局は後日注射を打たれるはめになるのだけれども。
その話を看護師にすると、僕の耳を見てけたけたと笑った。
「よくいうわよ、耳にそんなにいくつもピアスをしてるくせに。いくつ開けてるのそれ」。
窓越しに差し込んだ光に照らされて光る、透明な液体の入ったビニールパックを見つめる。きらきらと光りに滲んで美しい、ぽたぽたと管の中に落ちてゆく薬液のリズム。
さっきの喫煙室の男には愛想の無いことをしてしまった。昔からそうだ、元々人見知りではあるのだが、特に最初の印象で「嫌い」だと感じてしまうとつい冷たく、愛想なく振る舞ってしまう。まぁ、その印象は大概当たっていて、最初に受けた印象が覆ることはあまり無いのだけれども。そもそもが冷たく接しているので、向こうからしてみれば当たり前と言えばあたりまえなのだが。
物心ついた頃から一人でいることが多く、あまり社交的ではなかった。休み時間にみんながグランドでサッカーをしていてもその輪に入ることも無く、ひとり非常階段でぼんやりしているか、本を読んでいるような子供だった。
別段、運動が苦手とか嫌いな訳ではなかったのだが、ガキ大将的なリーダーシップが大嫌いで、それを中心に形成された集団というものが苦手だったのかもしれない。
大人になってもそれは変わらず、派閥だとか組織のようなものは苦手なままだ。昔から人と食事に行くのも苦手で人前で物を食べるという行為自体があまり好きではなかった。こういう性格なので人との付き合いや仕事で飲むということもストレスとなっていたのかもしれない。食事なども一人で出掛けることが多くなり、おのずと飲みに行くのも一人でということが増えていった。また、人と飲んで帰った後でも家で一人で飲み直すようになり、休みの日などはまだ陽も明るいうちに買い置きの酒を飲み出すという始末だ。
こうして、一人の世界で酔っているうちにだんだん酒量が増えてきた。
別段、何に不満があるわけでもない。世の中に絶望出来るほど真面目に生きて来たわけでもないだろう。希望に溢れているわけではないが、見ろ、世界はこんなにも美しいではないか。
じゃあ、どうしてこんなになるまで飲むのだろう。自問してみる。
「おまえ、そんなに酒が好きだったか」否。
「酔っぱらってて楽しいのか」まあ、それはある。
「そこから何かが生まれるのか」「酔ってりゃ厭な事忘れられるのか」・・
いくら自分を問いつめてみても答えは無い。理由が見当たらない。
答えや理由を探すのには到底説明の付けられない飲酒量になっているからだ。
「別れた女が忘れられなくてさ」とバーで酔いつぶれているようなレベルの飲酒量ではないのだ。
自分でもおかしいと感じていた。これは異常なことだと。
ふと、ずいぶん昔に読んだ本のことを思い出した。
石丸元章の「SPEED」という本だ。その一節にこう記してあった。
「世界最強のドラッグはアルコール」
そうなのだろうか、やっぱり僕はその「ドラッグ」に溺れてしまったのだろうか。
「連続飲酒に挑戦」とかそんなルポだった気がする。この本は作者があらゆるドラッグを身を以て体験しそれを一冊にまとめたものだが、その中にそんな項目があった。数日間アルコールを採り続けるとどうなるかということを、自らを実験台にルポタージュしたものだった。
「連続飲酒」という言葉を思い出し、自分の生活と当てはめて考えてみる。と、やはりそれは異常なことであり、常人では考えられない狂ったなにか魔物にでも取り憑かれたかのような行動だった。
喫煙室で回る換気扇の「ごぉ」という騒音に耳を塞がれ、意識と体とがまるで別物のように感じられて来る。体は造り物のように硬く感じられ、それがまったく自分の物だとは思えなくなる。換気扇の騒音に辺りの音は掻き消され、視覚は脳裏から剥ぎ取られて体とは別のところからその映像を観ているようだ。
どれくらいそうしていたのだろうか、喫煙室のドアを開ける音で飛んだ意識を引き戻された。
「○○君。さっきから探してるよ」
灰皿がわりに置いてある、何かの大きな空き缶を挟んで向かいに腰掛けた男がそう声を掛けて来た。その声にはっとなり顔を上げると男は僕の背にしている喫煙室のガラス張りをあごで指す。男の言う方に目をやるとガラス越しに、ひとりの看護師と目が合った。
その看護婦は僕の病室と自分の左の腕を交互に指差し何やら口を動かしている。
「点滴かなんかするんじゃないの」
向かいに座った男がそうつぶやく。そうだった、そういえばそんな事を検査に向かう前に言われていた。
ふらつく足で立ち上がり、向かいに座った男に礼も言わず、むしろ睨みつけるようにして喫煙室を出た。
「しまった、悪い癖だな」と思いながら喫煙室の前を横切り自分の病室へと向かった。
病室に戻りベッドに腰掛けていると早速ガラガラと点滴の器具を押して看護師が入って来た。
「○○君、どこいってたの。早くしないとお昼までに終わらないわよ」
言われるがままに腕を差し出し、天井を見上げる格好で横になる。もう慣れたもので、子供の頃あれほど嫌いだった注射の類いも全く気にならなくなっている。とにかく注射が嫌いで、あの手この手でなんとか腕に針する事を避けようといろんな事をした。予防接種の朝の体温測定を書き直してみたり、体温計を擦って温度を上げ、仮病を装ってみたり、注射の時間の前に小学校を逃げ出し身を隠してみたりと。
当然、子供の浅知恵なのでこっぴどく叱られた後、結局は後日注射を打たれるはめになるのだけれども。
その話を看護師にすると、僕の耳を見てけたけたと笑った。
「よくいうわよ、耳にそんなにいくつもピアスをしてるくせに。いくつ開けてるのそれ」。
窓越しに差し込んだ光に照らされて光る、透明な液体の入ったビニールパックを見つめる。きらきらと光りに滲んで美しい、ぽたぽたと管の中に落ちてゆく薬液のリズム。
さっきの喫煙室の男には愛想の無いことをしてしまった。昔からそうだ、元々人見知りではあるのだが、特に最初の印象で「嫌い」だと感じてしまうとつい冷たく、愛想なく振る舞ってしまう。まぁ、その印象は大概当たっていて、最初に受けた印象が覆ることはあまり無いのだけれども。そもそもが冷たく接しているので、向こうからしてみれば当たり前と言えばあたりまえなのだが。
物心ついた頃から一人でいることが多く、あまり社交的ではなかった。休み時間にみんながグランドでサッカーをしていてもその輪に入ることも無く、ひとり非常階段でぼんやりしているか、本を読んでいるような子供だった。
別段、運動が苦手とか嫌いな訳ではなかったのだが、ガキ大将的なリーダーシップが大嫌いで、それを中心に形成された集団というものが苦手だったのかもしれない。
大人になってもそれは変わらず、派閥だとか組織のようなものは苦手なままだ。昔から人と食事に行くのも苦手で人前で物を食べるという行為自体があまり好きではなかった。こういう性格なので人との付き合いや仕事で飲むということもストレスとなっていたのかもしれない。食事なども一人で出掛けることが多くなり、おのずと飲みに行くのも一人でということが増えていった。また、人と飲んで帰った後でも家で一人で飲み直すようになり、休みの日などはまだ陽も明るいうちに買い置きの酒を飲み出すという始末だ。
こうして、一人の世界で酔っているうちにだんだん酒量が増えてきた。
別段、何に不満があるわけでもない。世の中に絶望出来るほど真面目に生きて来たわけでもないだろう。希望に溢れているわけではないが、見ろ、世界はこんなにも美しいではないか。
じゃあ、どうしてこんなになるまで飲むのだろう。自問してみる。
「おまえ、そんなに酒が好きだったか」否。
「酔っぱらってて楽しいのか」まあ、それはある。
「そこから何かが生まれるのか」「酔ってりゃ厭な事忘れられるのか」・・
いくら自分を問いつめてみても答えは無い。理由が見当たらない。
答えや理由を探すのには到底説明の付けられない飲酒量になっているからだ。
「別れた女が忘れられなくてさ」とバーで酔いつぶれているようなレベルの飲酒量ではないのだ。
自分でもおかしいと感じていた。これは異常なことだと。
ふと、ずいぶん昔に読んだ本のことを思い出した。
石丸元章の「SPEED」という本だ。その一節にこう記してあった。
「世界最強のドラッグはアルコール」
そうなのだろうか、やっぱり僕はその「ドラッグ」に溺れてしまったのだろうか。
「連続飲酒に挑戦」とかそんなルポだった気がする。この本は作者があらゆるドラッグを身を以て体験しそれを一冊にまとめたものだが、その中にそんな項目があった。数日間アルコールを採り続けるとどうなるかということを、自らを実験台にルポタージュしたものだった。
「連続飲酒」という言葉を思い出し、自分の生活と当てはめて考えてみる。と、やはりそれは異常なことであり、常人では考えられない狂ったなにか魔物にでも取り憑かれたかのような行動だった。
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