2011年1月7日金曜日
独白。20
僕らは生まれた時にはまん丸い完璧な球体であったはずだ。ひとつの角も無い、その全体が「面」である球体。生まれ落ちた瞬間からそれはあらゆる刺激に晒され、つぎつぎにその滑らかさを失ってゆく。
最初の刺激に触れ、完璧な「面」は早くも失われ、次に無数の線を繋ぎ合わせた限りなく球体に近い、数えきれないほどの「面」からなる多面体へと変化してゆく。ストレスや刺激、経験といった物がその多面体の「面」の一つに触れるとその「面」は壊れ、繋がり、より大きな「面」を作り出す。人は重ねてゆく時間の中で完璧な球体から様変わりし、たくさんの面を持った「多面体」となるのだ。
そのたくさんの「面」こそが性格であり能力であり人と成りであり、多面体の形こそがその人の個性となってゆくのだ。
そうなのだ、人とは積み重ねて生きてゆくのではなく、そぎ落して生きてゆくのだ。
だが、僕のその形は少し違っている。無数の多面を持った球体に近いそれではなく、あらゆる刺激にぶち壊されて、三十六面、二十四面、十六面、十二面と、ついにはたった四つの「面」しか持たない「三角錐」のような形をしている。
もう一度、何かの力が加わってひとつでも「面」が壊れてしまえばもう、その瞬間に存在しなくなる。完璧な球体でもない限り、この世の中の物質は最低でも四つの「面」を持っていなければならないのだ。
雑言、罵声、嘲笑、嫉妬、皮肉、暴力。
もう、耳を塞いでじっとうずくまっていないと消えてしまうのかもしれない。
ふと我に帰ると、ひどい妄想にTシャツは汗にじっとりと濡れている。エアコンを付けたまま酔い潰れてしまったのだろうか、冷えきった部屋の空気に身震いをする。部屋の窓を開けるとどんよりと生暖かく湿気を帯びた空気が流れ込んできた。
がんがんと頭が痛い。どれくらい飲んだのだろうか、白いテーブルには数本の空き缶と空瓶が転がっている。
グラスにわずかに残った生ぬるいウォッカを飲み干し、キッチンへと向かう。ステンレス製の流し台の下の扉を開け、奥に手をやり感触を確かめてから何かの瓶を引きずり出す。
「料理酒よりましか」と赤ワインと日本酒の瓶を眺めながら思う。店から引き上げてきた包丁ケースの中からワインナイフを取り出す。ドイツ製のそのナイフを当てがい、奥から半周、手前に半周。アルミの封かんが切り離されるのを心地よく感じる。酔っぱらっていても、長年やって来たその動作には寸分の狂いも無い。スクリューをねじ込みコルクを引き抜き、さっきのグラスに注ぎながら心のなかでつぶやき自嘲する。
「って、これ料理用に買ったやつじゃん」。
グラスのワインを目覚めの水のように飲み干す。二杯目を注ぎながら胃のあたりに熱いものが感じられると、さっきまでの頭の痛みがすぅと遠のいてゆく。
白いテーブルに凭れるようにして白い椅子に腰掛け、二杯目のワインを口にしながらさっき取り憑かれた夢ともつかない妄想を思い出す。
最後の「面」が壊れてしまったらどうなるのだろう。精神の崩壊なのだろうか、それとも死なのだろうか。それとも、もう一度完璧な「面」に戻れるのであろうか。いずれにしてもさっきの妄想もあながち間違ってはなく、確かに僕は多面を持った柔軟な人間ではない。三角柱とまではいかなくても随分偏った歪な形をしているのだろう。
それとは逆に僕とは全く違う人はどんな形をしているのだろう。一昔前のクラブに吊り下げられたミラーボールのようにたくさんの「面」を持ち、あらゆる光を跳ね返し身にまとう様にきらきらと輝いているのだろうか。またある者は複雑な構造を持ち、その叡智を後の世に伝える古代の遺跡のような形をしているのだろうか。
まぁ、何にせよひとつだけ確かな事がある。
僕は仕事を放り投げて、またひとつ「面」をぶち壊しにしてしまったのだ。
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