2014年6月1日日曜日

独白。22


喉元にべったりと張り付く様な重たい熱に目を覚ます。

昼間の太陽はこの建物を焼き、部屋をオーブンに変えて僕を蒸し焼きにしようとする。

緩い坂の途中に建ったこのアパートの半地下の様な僕の部屋は陽当たりとは無縁だ。
それでも太陽の熱は上から下へと建物を伝い、最下層の僕の地下室を襲う。

窓を開けるが外からは更に熱く湿った空気が流れ込んでくる。
たまらずエアコンのリモコンを手にするが、少しためらったあとでシャワーを浴びて汗を流してそのまま仕事へ出掛ける事にした。

「どこに住んでるの」と聞かれたら、「高円寺」と答える。

実際は高円寺ではなく「堀ノ内」なのだが説明する煩わしさとちょっとした見栄でそう答える事にしている。高円寺からは梅里を挟んだ更に南ですぐ隣は方南町だ。駅だって中央線の「高円寺」ではなく、丸ノ内線の「新高円寺」が最寄りなのに。

アパートから何もない住宅街をしばらく歩いて青梅街道まで出る。
五日市街道入り口の交差点から高円寺南口へと続く道を歩く。

この通りは東京だと言うのに車も人の影もまばらだ。
駅のロータリーまでで大きな道は途絶えていて、その先には細い路地といくつかの商店街と複雑な一方通行とが入り組んでいるからだろう。

青梅街道を横切り、排気ガス臭い環七通りと賑やかな商店街に挟まれたこの道を歩く。途中何軒かのレコード屋と古着屋があるくらいでほかに興味を引くものは何もない。

音も色も臭いもないただの風景のような、ただ駅へと続くだけのこの道が僕は好きだ。

途中、店へと続く道を曲がらずそのまま南口にある「Yonchome Cafe」へ向かった。
あさひと何度か来ているうちに、ひとりでも良く来るようになった四丁目にある四丁目カフェ。駅のロータリーのビルの二階部分にあるこのカフェは少しかわった造りで、人目に付かずにゆっくり出来るスペースがあるからだ。

冷たいアイスコーヒーを飲んで分厚いトーストをあらかたかじった頃、さっきまで僕を焼き殺そうとしていた太陽が少しだけその手を休ませた。太陽が傾くのを確認して店へと向かう事にした。

店へ着きシャッターを上げる。階段を上って行くと鼻を突く臭いにうんざりとする。
煙草とアルコールと化粧品と便所の芳香剤と誰かの吐瀉物の入り混じった臭い。

それを更にさっきの太陽が蒸し焼きにしてくれた臭い。

子供の頃から嗅ぎ慣れた臭い。実家の店からも同じ臭いがしていた。
あれほど嫌った臭い。気が付くとその臭いのなかで暮らしている自分を嘲う。

夜でもないのに薄暗い店内の掃除を済ませ、蒸し焼きにされた昨日の夜の汚れた空気をようやく洗い流し狭い階段から看板を引きずり下してとなりの店のそれと並べる。
となりのその店からは陽もまだ落ちきっていないというのに忙しいらしく、あさひの威勢のいい声が聞こえて来た。

しばらく惚けて聞いていたが買い出しがある事を思い出し、店に鍵を掛け出掛けようとする僕を呼ぶ声がする。

「○○ちゃーん。今日もいい男ねぇ」
「一息ついたらお茶でも飲みに寄りなさいよ」。

振り返ると向いの二階にある飲み屋の小さな窓から若くはない化粧の男の笑顔がのぞいた。その二階の飲み屋はいわゆるゲイバーというやつで、彼はいつも僕を可愛がってくれるお姉さんだ。

中年に差しかかった彼女の笑顔は、薄暗くなってきた辺りの夕闇に塗れ、かろうじて美しいものとしてとどめておく事ができた。

彼女たちは綺麗ではなくても美しい。
不純ではあっても、とても純粋だ。

太陽の熱と光の余韻がだんだんと遠ざかって行こうとする頃に、僕と僕のまわりの世界は無秩序と喧噪と混沌に向けて今日もまた動き出す。

動き出すその先には何も無い。
無秩序と喧噪と混沌をやり過ごし、ただ、ただ、その収束に向かうだけだ。









2013年5月11日土曜日

独白。 21


十九から二十歳になった夏の終わり、
むせ返るまばらな人ごみの中に僕は立っていた。

「今までどこに行ってたのよ、急にいなくなちゃって」

久し振りの高円寺の商店街。
偶然に僕を見つけた彼女は驚いたたような困惑したような表情のまま続ける。

「バイトにも急にこなくなっちゃうし、どうしてたの」
「これ、私の電話番号。ぜったい連絡してよ、ぜったいだからね」。

彼女とは同じバイト先で知り合った。
同じバイト先とは言っても同じオーナーの経営する隣合った店の僕はバーで彼女はその隣の居酒屋でそれぞれ働いていた。

店の掃除や仕込みやら準備を一通り終えて、忙しくなる夜を迎える前に僕は隣合った居酒屋のカウンターの一番奥で賄いを食べるのだが、そのとき目にする彼女は溌剌として美しくいつも輝いてた。

店同士の裏口からは共用のスペースに冷蔵庫や物置が置いてあり、そこで顔を合わせる機会も何度かあって彼女の事は知っていた。
というのも時折僕に向けられる笑顔が印象的でその度にひとり胸をざわつかせていたからなのだけれども。

その日も忙しそうに彼女は店内を駆け回っていた。
吹き抜けになった二階の客席から彼女の声が聞こえてくる。

「それでは!今日も一日お疲れ様でした!かんぱーい!」

接客も他の店員とのやり取りにも常に声を張り上げているせいで彼女の声はいつでも枯れている。
「ほんとはこんな声じゃないんだよ」
「ここでバイトするようになってからこんなんなちゃった」。
しゃがれた声を言い訳するようにそんな事を彼女は言う。

平日の暇な日などは夕方のラッシュ明けを狙って時折僕たちはビラ配りへと駆り出される。高円寺南口のロータリー前やアーケードの商店街に立ち、道行く人に割引券などを押し付けるのだ。

そこで彼女と一緒になるたびになんとなく話すようになっていた。

ふたりして駅前に立ち行き交う影にいつものように割引券を差し出す。
夕日も傾き、茜色の空が群青に飲み込まれる頃になると妖しい色をした看板を手にした男たちがどこからともなく現れ僕たちと並んで道行く人に声を掛け始める。

男たちの手にする手持ちの看板の文字の如何わしさと清涼な彼女との存在の対比。
僕の視線に気付いた彼女が悪戯な顔で言う。

「なんか馬鹿らしくなちゃった。ちょっとさぼりに行こうよ」

そう言うと彼女は歩き出し振り返りながら手招きをする。
しばらく歩き、バイト先とは通りがふたつほど離れたカフェの二階へと向かう。

「ここならバレないでしょ」

店員に注文している僕に彼女は言う。

「あ、アイスコーヒーふたつ」

彼女の名前は「あさひ」
年は僕よりもふたつほど若く、この高円寺に子供の頃から住んでいるという。

その日から時々バイトをさぼってはふたりでこうして話すようになった。
他愛も無いことばかりだが仕事の愚痴や音楽の事や映画の話。
あさひは言う。ここでバイトしたお金を貯めてインドへ行きたいのだと。
世界を見て歩きたいのだと。

僕はといえばなんのあても無いくせに音楽をやりたいと嘯き、楽器を手に漠然と田舎の退屈から東京のこの街へと逃げて来たのだ。

生活に追われ、音楽どころではなく目的を見失いそうになりながら、せいぜい古レコード屋を徘徊しレコードをひとり聴き漁るくらいしかできない日々が続いていた。

退屈から逃げ出して来たはずだが、退屈はどこまでも僕を追いかけて来た。

この街に暮らして、僕にはじめてやさしくしてくれたのは彼女だった。

2011年1月7日金曜日

独白。20

 
 僕らは生まれた時にはまん丸い完璧な球体であったはずだ。ひとつの角も無い、その全体が「面」である球体。生まれ落ちた瞬間からそれはあらゆる刺激に晒され、つぎつぎにその滑らかさを失ってゆく。

最初の刺激に触れ、完璧な「面」は早くも失われ、次に無数の線を繋ぎ合わせた限りなく球体に近い、数えきれないほどの「面」からなる多面体へと変化してゆく。ストレスや刺激、経験といった物がその多面体の「面」の一つに触れるとその「面」は壊れ、繋がり、より大きな「面」を作り出す。人は重ねてゆく時間の中で完璧な球体から様変わりし、たくさんの面を持った「多面体」となるのだ。

そのたくさんの「面」こそが性格であり能力であり人と成りであり、多面体の形こそがその人の個性となってゆくのだ。

そうなのだ、人とは積み重ねて生きてゆくのではなく、そぎ落して生きてゆくのだ。

だが、僕のその形は少し違っている。無数の多面を持った球体に近いそれではなく、あらゆる刺激にぶち壊されて、三十六面、二十四面、十六面、十二面と、ついにはたった四つの「面」しか持たない「三角錐」のような形をしている。

もう一度、何かの力が加わってひとつでも「面」が壊れてしまえばもう、その瞬間に存在しなくなる。完璧な球体でもない限り、この世の中の物質は最低でも四つの「面」を持っていなければならないのだ。

雑言、罵声、嘲笑、嫉妬、皮肉、暴力。
もう、耳を塞いでじっとうずくまっていないと消えてしまうのかもしれない。

 ふと我に帰ると、ひどい妄想にTシャツは汗にじっとりと濡れている。エアコンを付けたまま酔い潰れてしまったのだろうか、冷えきった部屋の空気に身震いをする。部屋の窓を開けるとどんよりと生暖かく湿気を帯びた空気が流れ込んできた。
がんがんと頭が痛い。どれくらい飲んだのだろうか、白いテーブルには数本の空き缶と空瓶が転がっている。

グラスにわずかに残った生ぬるいウォッカを飲み干し、キッチンへと向かう。ステンレス製の流し台の下の扉を開け、奥に手をやり感触を確かめてから何かの瓶を引きずり出す。
「料理酒よりましか」と赤ワインと日本酒の瓶を眺めながら思う。店から引き上げてきた包丁ケースの中からワインナイフを取り出す。ドイツ製のそのナイフを当てがい、奥から半周、手前に半周。アルミの封かんが切り離されるのを心地よく感じる。酔っぱらっていても、長年やって来たその動作には寸分の狂いも無い。スクリューをねじ込みコルクを引き抜き、さっきのグラスに注ぎながら心のなかでつぶやき自嘲する。

「って、これ料理用に買ったやつじゃん」。

グラスのワインを目覚めの水のように飲み干す。二杯目を注ぎながら胃のあたりに熱いものが感じられると、さっきまでの頭の痛みがすぅと遠のいてゆく。

白いテーブルに凭れるようにして白い椅子に腰掛け、二杯目のワインを口にしながらさっき取り憑かれた夢ともつかない妄想を思い出す。

 最後の「面」が壊れてしまったらどうなるのだろう。精神の崩壊なのだろうか、それとも死なのだろうか。それとも、もう一度完璧な「面」に戻れるのであろうか。いずれにしてもさっきの妄想もあながち間違ってはなく、確かに僕は多面を持った柔軟な人間ではない。三角柱とまではいかなくても随分偏った歪な形をしているのだろう。
それとは逆に僕とは全く違う人はどんな形をしているのだろう。一昔前のクラブに吊り下げられたミラーボールのようにたくさんの「面」を持ち、あらゆる光を跳ね返し身にまとう様にきらきらと輝いているのだろうか。またある者は複雑な構造を持ち、その叡智を後の世に伝える古代の遺跡のような形をしているのだろうか。

まぁ、何にせよひとつだけ確かな事がある。
僕は仕事を放り投げて、またひとつ「面」をぶち壊しにしてしまったのだ。

独白。19

 陽射しはすっかり強くなっていて、日中ともなると逃げ場の無い熱気と揺らめきたつ陽炎にむせ返り、纏わり付くそれを冷えたビールで洗い流す。

夏だ。

 仕事を放棄した僕の側で、携帯電話が唸りを上げている。店のオーナーからだろう。午後になっても現われない僕と、すっかりがらんどうになってしまった事務所の様子に少しは狼狽えてるのであろうか。
僕は携帯電話の電源を切り、多少の罪悪感をごまかすために何本目かのビールを開ける。

いつだって、物の終わりなんて唐突なものなんだ。

今までもそうだったじゃないか、嫌な予感とか不安とかいうものはそれを感じ始めたときにはもうすでに手遅れで、絶対的な絶望としてすぐ傍らに寄り添っているものなのだ。気付いたときには遅いのだ。

 仕事柄飲む機会が多かったので、そうなると運転が出来ない。なので近くにアパートを借りて住んできた。実をいうと、まだ実家から通っていた頃、仕事帰りに見事に飲酒運転で捕まってしまったことがあり、それに懲りて以来ここに住んでいるのだ。
投げ出してしまったものに後ろ髪を引かれ、今から戻って謝ろうかとも考える。しかし、それよりも責任を放棄して得た、後ろめたい開放感に心地よさを憶えてしまっている。きっと、僕はもう限界なんだ。
今まで培ってきた、信頼や関係、人とのつながり、友人達。失ってしまう物もたくさんあるんだろう。だけどもういい、しばらく休ませてほしい。

 そのまま眠りについてしまったようで、気付いた頃にはもう辺りはすっかり薄暗くなっていた。窓からは夕方の涼しく濡れた空気が流れ込む。

ひとつだけ、気がかりな事がある。
今までも何度も心が折れそうになった事はあったのだが、そいつがぎりぎりのところで僕をつなぎ止めておいてくれたのだ。

 冷蔵庫を開け、中身の侘しさに舌打ちを一つしたあと、近くのコンビニへと向かう。まだだいぶ酔っている頭と躯の酔い冷ましの夕涼み、縺れる足で散歩のついでに、その気がかりな事のところへ。

しばらく歩くと青と白の看板が見えて来る。国道に面したそのコンビニを一本裏の国道と平行に伸びる裏道から目指す。仕事先にほど近いすっかり馴染みのコンビニである。
近づくにつれ、例の気がかりな事で頭はいっぱいになる。急かす気持ちが自然と歩幅を広くする。
しばらくすると遠くの方から僕を見つけたのか、何やら喚きながら近寄って来る影がある。その影は僕を確認すると歩みを小走りへと変え、真っすぐに僕の元へと駆け寄ってきた。
道路の真ん中であるという事に構いもせず、腹を上にして転げ回り、喉を鳴らし甘えてくる。

「ジョナ、ごめんな。ご飯まだでしょ」。

そう、気がかりだったのは子猫の頃から店の裏あたりに居着いている野良猫の「ジョナ」なのだ。
 
 そう言うのを理解したのかどうかは分からないが、僕の先を歩き、「早く」と言わんばかりにコンビニの方へと歩いて行く。僕が自動ドアを通るとそのドアの外に行儀良くちょこんと座り、猫だと騒ぐ人にもおくびもせず僕の買い物の様子をじっと見ている。まるで、目当てのものをちゃんと買ってくれたかチェックをしているようだ。
彼女が子猫の頃から毎日のように繰り返されているこの様子に、店員さんも慣れた様子で咎めるような事も言わない。
「今日も外で待ってますよ、からあげクンはいいんですか」。
と店員さんの口車に乗せられてついひとつ。そう、これが目当てなのだ。

猫缶とからあげクン、自分用の缶チューハイとウォッカを買う。

店を出ると、「待ってました」とばかりに甘い声で鳴き、それをねだる。
すこし離れた駐車場の隅で、チューハイの缶を開け、からあげを一緒に分けて食べる。きのうから何も食べていなかったのだろうか、猫缶もからあげもあっという間に平らげた。

満足したのだろうか、時々こちらに視線を向け何やらつぶやくように鳴いては、すぐ隣で喉を鳴らし満足そうに毛繕いをしている。

いつもと何も変わらない風景のはずなのだが、なんだか僕は自分の不甲斐なさで彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

独白。18

 その日もいつもの様にラストオーダーをやり過ごし、厨房を片付けた後お客の酒に付き合っていた。たいがいオーダーストップ後にやって来る客というのは顔なじみで、どこかでしこたま飲んで来たあと、まだまだ飲み足りないのか最後の仕上げにとばかりにふらふらとやって来る客や、同業者で仕事帰りに喉を潤しにやってくる様な客がほとんどだった。
ラストオーダーとは言っても腹が減ったと、なにか肴をと言われれば断る訳にはいかないのでたとえ真夜中だとしても鍋を振るうことになる。一応、深夜十二時ラストオーダー、片付けをして一時で僕の仕事は終い。という決まり事んはなってはがそんな決まりが守られる訳もなく、毎夜やってくる酔っぱらい達に酒や食事を振る舞うのだ。

そこで、付き合わされる客の酒、これがまた旨いものなのである。
「こっち来てなんでも、好きな物飲みなよ」「さっさとお仕事片付けてここにすわってよ」などとご指名があろうものならば、遠慮なくご相席いただくのである。
ビール一杯ごちそうになったり、客のボトルを飲みきって、じゃあもう一本入れようかとなればそれは店の売り上げにもなる。

つまるところ、深夜においての僕の役割はキャバクラやスナックの女の子と一緒なのだ。

そんな生活を続けているうちに、体に異変が現われた。体にというより、酒の飲み方自体にだ。

 以前はどんなに飲んだ次の日の仕事でも、お昼の営業がはじまる頃にはすっかり酔いも冷めていた。それがだんだんと、酒が抜けきらないばかりか、抜けて来ると手元が震える様になってきたのだ。包丁を持つ手、料理を運ぶ手が震える。
それをごまかすために、あらかじめ買っておいた酒をあおる。厨房が仕事場なのでそこに酒が置いてあっても誰も怪しまない。調理用ワインや製菓用のリキュールの瓶の中に紛らわせておけば誰も不思議がらない。それらをちびりちびりとやりながらオーダーをこなすのである。
多少酒臭くとも、「いやぁ、きのうは飲み過ぎましたねぇ」の一言でごまかしながら。

そうなのだ知らずのうちに僕は立派な「キッチンドランカー」になっていたのだ。

 そんな生活がしばらく続いた。どれくらいのあいだ酔っぱらい続けていたのだろうか。だんだん仕事も億劫になり、自分でも嫌になるほど適当で怠慢な仕事振りでやり過ごす日々が続いた。やっつけ仕事とはまさにこのことだ。

 ある暑い夏の日の夜、いつもの様に客の酒で酔っていた。夜もすっかり深くなり、他の従業員はとっくに帰ってしまっていた。カウンターでは店のオーナーが酔いつぶれていた。僕は店を閉めようと片付けをはじめていた。
すると、もうひとり酔いつぶれていたお客の男がおもむろにフラフラと立ち上がる。ようやく帰るのだろうかと思い、声を掛けようとしたその時だった。席を立った男はズボンのチャックを下げ、何を思ったのかカウンター横にに置いてあったカラトリー(フォークやナイフ)のラックに向かって勢い良く小便をぶちまけたのである。

ぼんやりとその様子をみていた僕の中で、何かが弾けて飛び散った。

「もうやめよう。こんな仕事」 酔いすぎた頭とからだが僕にそうつぶやかせた。

気が付くと、はじから私物を車に放り込んでいた。

長い間のうちに随分と荷物が多くなっていて、まるで僕の部屋と化していた奥の事務所に少々手こずりながら黙々と荷物を車へと運んだ。

割と大きめのステーションワゴン。座席を倒した後ろの荷台はあっという間に荷物で一杯になっている。
それを見て、なんだか妙にすっきりとした気持ちになり大きく息を吸ってみる。


夏のにおいがしていた。
涼しい風が吹いていた。
夜はしらじらと明けようとしていた。

2011年1月6日木曜日

独白。17

 病棟に戻り喫煙室に入って一服するが、タバコが全然旨くない。となりの病棟に行って検査を受けて往復して来ただけなのに体中がだるい。しかも、真冬だというのに全身から脂汗が吹き出してきてべたべたと気持ちが悪い。
喫煙室で回る換気扇の「ごぉ」という騒音に耳を塞がれ、意識と体とがまるで別物のように感じられて来る。体は造り物のように硬く感じられ、それがまったく自分の物だとは思えなくなる。換気扇の騒音に辺りの音は掻き消され、視覚は脳裏から剥ぎ取られて体とは別のところからその映像を観ているようだ。
 どれくらいそうしていたのだろうか、喫煙室のドアを開ける音で飛んだ意識を引き戻された。
「○○君。さっきから探してるよ」
灰皿がわりに置いてある、何かの大きな空き缶を挟んで向かいに腰掛けた男がそう声を掛けて来た。その声にはっとなり顔を上げると男は僕の背にしている喫煙室のガラス張りをあごで指す。男の言う方に目をやるとガラス越しに、ひとりの看護師と目が合った。
その看護婦は僕の病室と自分の左の腕を交互に指差し何やら口を動かしている。
「点滴かなんかするんじゃないの」
向かいに座った男がそうつぶやく。そうだった、そういえばそんな事を検査に向かう前に言われていた。
ふらつく足で立ち上がり、向かいに座った男に礼も言わず、むしろ睨みつけるようにして喫煙室を出た。
「しまった、悪い癖だな」と思いながら喫煙室の前を横切り自分の病室へと向かった。

 病室に戻りベッドに腰掛けていると早速ガラガラと点滴の器具を押して看護師が入って来た。
「○○君、どこいってたの。早くしないとお昼までに終わらないわよ」
言われるがままに腕を差し出し、天井を見上げる格好で横になる。もう慣れたもので、子供の頃あれほど嫌いだった注射の類いも全く気にならなくなっている。とにかく注射が嫌いで、あの手この手でなんとか腕に針する事を避けようといろんな事をした。予防接種の朝の体温測定を書き直してみたり、体温計を擦って温度を上げ、仮病を装ってみたり、注射の時間の前に小学校を逃げ出し身を隠してみたりと。
当然、子供の浅知恵なのでこっぴどく叱られた後、結局は後日注射を打たれるはめになるのだけれども。
その話を看護師にすると、僕の耳を見てけたけたと笑った。
「よくいうわよ、耳にそんなにいくつもピアスをしてるくせに。いくつ開けてるのそれ」。

 窓越しに差し込んだ光に照らされて光る、透明な液体の入ったビニールパックを見つめる。きらきらと光りに滲んで美しい、ぽたぽたと管の中に落ちてゆく薬液のリズム。

 さっきの喫煙室の男には愛想の無いことをしてしまった。昔からそうだ、元々人見知りではあるのだが、特に最初の印象で「嫌い」だと感じてしまうとつい冷たく、愛想なく振る舞ってしまう。まぁ、その印象は大概当たっていて、最初に受けた印象が覆ることはあまり無いのだけれども。そもそもが冷たく接しているので、向こうからしてみれば当たり前と言えばあたりまえなのだが。

 物心ついた頃から一人でいることが多く、あまり社交的ではなかった。休み時間にみんながグランドでサッカーをしていてもその輪に入ることも無く、ひとり非常階段でぼんやりしているか、本を読んでいるような子供だった。
別段、運動が苦手とか嫌いな訳ではなかったのだが、ガキ大将的なリーダーシップが大嫌いで、それを中心に形成された集団というものが苦手だったのかもしれない。
大人になってもそれは変わらず、派閥だとか組織のようなものは苦手なままだ。昔から人と食事に行くのも苦手で人前で物を食べるという行為自体があまり好きではなかった。こういう性格なので人との付き合いや仕事で飲むということもストレスとなっていたのかもしれない。食事なども一人で出掛けることが多くなり、おのずと飲みに行くのも一人でということが増えていった。また、人と飲んで帰った後でも家で一人で飲み直すようになり、休みの日などはまだ陽も明るいうちに買い置きの酒を飲み出すという始末だ。

こうして、一人の世界で酔っているうちにだんだん酒量が増えてきた。

別段、何に不満があるわけでもない。世の中に絶望出来るほど真面目に生きて来たわけでもないだろう。希望に溢れているわけではないが、見ろ、世界はこんなにも美しいではないか。

じゃあ、どうしてこんなになるまで飲むのだろう。自問してみる。

「おまえ、そんなに酒が好きだったか」否。
「酔っぱらってて楽しいのか」まあ、それはある。
「そこから何かが生まれるのか」「酔ってりゃ厭な事忘れられるのか」・・

いくら自分を問いつめてみても答えは無い。理由が見当たらない。
答えや理由を探すのには到底説明の付けられない飲酒量になっているからだ。

「別れた女が忘れられなくてさ」とバーで酔いつぶれているようなレベルの飲酒量ではないのだ。

自分でもおかしいと感じていた。これは異常なことだと。
ふと、ずいぶん昔に読んだ本のことを思い出した。
石丸元章の「SPEED」という本だ。その一節にこう記してあった。

「世界最強のドラッグはアルコール」

そうなのだろうか、やっぱり僕はその「ドラッグ」に溺れてしまったのだろうか。

「連続飲酒に挑戦」とかそんなルポだった気がする。この本は作者があらゆるドラッグを身を以て体験しそれを一冊にまとめたものだが、その中にそんな項目があった。数日間アルコールを採り続けるとどうなるかということを、自らを実験台にルポタージュしたものだった。

「連続飲酒」という言葉を思い出し、自分の生活と当てはめて考えてみる。と、やはりそれは異常なことであり、常人では考えられない狂ったなにか魔物にでも取り憑かれたかのような行動だった。

2010年12月1日水曜日

独白。16

『いずれにしても生き延びていくしかないのだ。死はいつも隣にいるが、何とかごまかして、しばらくはおあずけをくわせるのにこしたことはない。』 

                           C・ブコウスキー


  検査が終わったのだろう、片付けを始めた医師がタオルを渡しながら言う。
「これで体を拭いて。血液の結果を見ると炎症はなさそうだしアルコールをやめればすぐにもとに戻るわよ、あなたまだ若いんでしょ、ガンマがこれだけ上がるってのはまだ肝臓が元気って証拠よ。年とって弱ってくるとね、上がらないのよ、どれだけ飲んでもね」。
ふぅん、そんなものなのか。
 その医者の話だとこうだ、若くて元気な肝臓ほど良く働く。飲酒で飲まれたアルコールは中枢神経系に対して酩酊を来たすがアルコール自体には毒性はない。アルコールは肝臓で、主に肝細胞内にあるアルコールデヒトロゲナーゼにより代謝され肝毒性の強いアセトアルデヒドになる。
γ-GTPの値というのはかんたんに言うとアルコールを分解する時に活働した肝臓の細胞の死骸なのだという。そのため肝炎や肝硬変にまで進行してしまうと、いくら飲んでもこの数値が上がらなくなってしまう。そうして破壊しつくされ繊維化した肝細胞はもう二度と健康な状態にもどることはないのだと。死骸として排出される細胞の数自体が減ってゆくのだ。
 アセトアルデヒドは肝毒性が強いので肝細胞内で産生と同時に速やかにアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)により分解されて酢酸になる。酢酸からはアセチル-CoAが生成され、脂肪酸が合成されるのでアルコールを多飲すると高脂血症を来たす。これが僕の倒れたアルコールてんかんの原因ということらしい。

 その医師に礼を言い診察室を出る。みぞおちの辺りに手をやり指先でそっと押してみる。ずん、と鈍い痛みを感じその内部で肝臓が悲鳴をあげているのがわかる。
そうなのだ、ずいぶん前から感じていた違和感なのだ。自覚がありながらずっと見ない振りをしてきたのだ。
 タバコの残りが少ないということを思い出した僕は、検査を受ける前にちらっと覗いた売店へと向かう。先ほどの賑わいはピークを越えたのか中ではさっき目が合った女性職員が商品棚の整理をしていた。
「何かお探しですか?」と唐突に声をかけられ一瞬答えに詰まってしまう。
「あの、タバコって売ってますか?」そう伝えると彼女は申し訳けなさそうに、
「すいません、あまり種類は置いてないんですけど」とレジの後ろの棚を指差した。
メンソールのタバコはマルボロだけだった。仕方が無いのでそれをひとつと缶コーヒーをもらう事にした。レジを打つその女性は小さいながらもくりっとした瞳をした可愛らしい女性だった。ここは何かと話しかけようとしたその時、入り口の扉のガラスに映る自分の姿に愕然とした。
頬はこけ、目は落ちくぼみ、伸びきった髪はぼさぼさで髭は伸び放題。まるで落ち武者の亡霊か、そうでもなければ薄汚い浮浪者のようなのだ。僕は話しかけようとした言葉をそのまま飲み下し、タバコとコーヒーと釣り銭を受け取ると逃げ出すように売店をあとにしていた。

 アルコールをやめれば肝臓はまだ元にもどるとさっきの医師は言っていた。が、果たして酒をやめるなどということが出来るのであろうか。アルコールと僕の仕事は結び付きも強いし、常に素面のままで生きて行けるほど僕自身強い人間ではない気もする。

「死んだって結構だ。いい女といい音楽、それと酒だ。最高じゃねぇか、ロックンロールだ。それ以上に何があるってんだよ、教えてくれよ」。

死んだOさんが酔ってはそうよく言っていた。そうなのだ、彼の言ってた事も僕にとっては少しは本当なのだ。別に旨い肴もいらない。気を利かせた会話も必要なければ、解り合おうとする必要も無い。大切なのはロックンロールなのだ。
酔っぱらった天使が宙に舞い上がり、酔いどれ詩人は暗闇の夜に吠える。ブコウスキーの冷たく光る月の夜。「勝手に生きろ」と彼は言う。

「人生は確かに醜いが、あと三、四日生きるには値する。なんとかやれそうな気がしないか?」。

ブコウスキーはそう言った。そうなのだ、それもそれで本当のことなのだ。僕はそれで死んでもいいなどとは思わないし、そのうえ死にたくはないななどと考えたりもする。
 不確かでメランコリックであり続けたこの世界とはたして決別できるのであろうか。僕にとってはそれよりもさらに不確かな現実の世界と素面で向かい合うことが出来るのであろうか。さっきの売店での出来事のように逃げ出してしまうのではないのだろうか。

まだアルコールの抜けた気のしないぼやけた頭の隅っこでそんな事を考えていた。