ここに運ばれてからどれくらい経ったのだろうか。どれくらい眠らされていたのだろうか。運ばれてきたのは夜だ。昨日の事なのか、一昨日の事なのか。
まったく良くなる気がしない気分の悪さと相変わらず重たくべっとりとした意識の中で考える。昼間の病院は夜とは全く別の雰囲気だった。夜の吸い込まれそうになる静けさとは正反対の騒々しさ。
「いったん、着替えとか取りに家に帰るから、ちゃんと先生の言う事聞いてなさいよ」そんな事を言いながら母は親父と一緒に出て行った。まったく、三十過ぎになっても子供扱いだ。そんなものなんだろうか、母親とは。
二人とも僕の容態が落ち着くまで、夜中じゅう付き添ってくれたのだろう、随分と疲れ眠たそうな顔をしていた。
あらためて見ると点滴が二本、からだに突き刺さっている。薄い黄色の液体と、透明などろっとした液体。時より看護士が来て、腕時計を見ながら何やらチェックしていく。さっき母と話したのだが、ここはT市の市立病院で、今朝、救急からこの一般病棟に移されたとの話だった。六人部屋の一番奥の窓際のベッドから、窓の外を見る。街とは裏側の山側の病室らしく、窓からは山の景色以外何も見えず、ますます自分がどこにいるのかを解らなくさせてくれる。ここが、ほんとうにT市立病院ならば、前に何度か来た事がある。
「ロビーにドラえもんがいるはずだ」。
今思うと、その時すでに離脱症状が始まっていて、まともな考えとか精神状態ではなかったのだと思う。僕は点滴の針を引き抜き、ベッドから降り、縺れる足で病室を出た。出るとすぐ左にエレベーターが開くのが見えたのでそれに乗った。1から4まであるボタンの1を押す。しばらくすると、鈍い金属音とともに落ちて行くような感覚。
「気持ち悪い」何階から乗ったのか解らないが、時間の感覚がおかしくなっていたのだろう、地の底まで続くような、随分と長いエレベーターに感じた。
ドアが開く。目の前のガラス張りの廊下は見覚えのある場所だった。
「外来受付のカウンターの横にドラえもんがいる」。
なぜそんな事を思っていたのだろう。ふらつきながら歩く僕に、ロビーで診察を待つ人達の目が一斉に向けられる。「何見てんだよ、こいつら」と思いながら、カウンターを通り過ぎ、意味不明の確信を持ってロビーの奥に目をやる。
「ほら、やっぱりあった。ドラえもん」そこは小児科診察室で、その入り口のとなりに大きな青い人形。やっとの思いで、ようやく辿り着いた僕を呼ぶ叫び声。
「○○さん!何やってるんですか!」担当の医者と看護士が血相を変えている。「だめじゃないですか!おとなしくしてないと!」
「すいません、ちょっと」と言いかけた僕は半ば強引に車いすに乗せられた。
あたりが騒然としている。どうしたことか僕に人々の奇異の目が寄せられている。
よく見てみると、さっき引き抜いた点滴を引き抜いた腕から、血がぼたぼたと流れている。病室に連れ戻される車いすから、僕の歩いて来た道のりに、大量の血痕が残っているのが見える。それこそ、そこら中の床や壁に。ちょっとしたホラーだ。
病室に戻ると、そこもまた血だらけだった。ベッドや床、壁にも飛び散った血液が滴っている。後で聞いたのだが、点滴の針は引き抜いたというより、引きちぎったとの事だ。透明のチューブを体からつり下げその先から逆流した血を垂れ流し、何ごとかブツブツ言いながらよろよろと歩いていたらしい。
想像してみる。まるで、かなりとち狂ったあぶないキ○ガイみたいだ。
「辛そうですね、ちょっと強いお薬に変えましょうか。」
たしかに、どんどん具合が悪くなってゆく。今までにも感じた事のある、アルコールが切れた時のどうしようもない焦燥感と、からだ中を何匹もの虫が這い回る様なあの厭な感じ。
「体内のアンモニアを急激に下げられる、あ、まだ新薬なんですが、これを投与してもよろしいでしょうか。それで様子をみましょう」。
話を聞くとどうやら、本人の意思確認が必要らしい。相当強い薬なのだろう。
「なんでもいいから、はやくしてくれよ。気が狂いそうだ」。
ほんとになんでも良かった。この苦しみに比べれば薬の副作用なんてどうでもいい。一応、薬の説明を受けたのだが何も聞いていなかった。なんと言う名前の薬だったのかすら思い出せない。
だがこの新薬とやらが、とんでもない代物だったのだ。
2010年6月8日火曜日
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